養老孟司の『死の壁』を読んだ。以前に『バカの壁』を読んで感銘を受けていた。『死の壁』を本屋で目にした時には、死体に触れることを仕事とする解剖学の教授の養老孟司が、死についてどういうことを書いているのか興味深かった。
養老孟司は、いい意味で力の抜けた自然体の人という印象を受けた。そして、対照的な人物として、立花隆が頭に浮かんだ。立花隆が柔道家だとしたら、養老孟司は合気道家といったところ。立花隆は、問題とがっちり組み合い、相手の技を受け止めつつ、返し技を仕掛けていくような感じで、柔と剛を兼ね備えている感じがする。一方で、養老孟司は、相手の技をさらりとかわし、その力を利用して技を仕掛けていく感じがする。 『バカの壁』、『死の壁』は、養老孟司自身は書いていない。優秀な編集者がいて、養老孟司がしゃべったことを、その編集者が文章にしている。床から天井にまで届いてしまうほどの文献を読みあさり、考えに考え抜いて文章を書く立花隆と、なんと対照的なことか。 立花隆が知性の限界を突き破ることに情熱を燃やしているのに対して、養老孟司は生命体である自分自身を尊重している。知というピラミッドのほぼ頂点にいながら、全く逆のベクトルを向いている二人を、比較検討してみるのはおもしろいし興味深い。 興味の対象について掌握しようとする立花隆と、わからないからおもしろいと言う養老孟司。 臨死体験した人たちにインタビューして、膨大な資料を集め、死とは何かを考えようとする立花隆と、「死んだ後のことなんて知ったこっちゃない、そんなことわかってたまるか」という養老孟司。死に対する取り組み方も対照的だ。しかし、死というテーマに関しては養老孟司のほうが一枚上手だろう。解剖という職業柄か、死という現象を思考のみならず、身体でとらえている。 『死の壁』を読んでいて、ちょっとドキッとしたのが、遺体が出せない団地のエピソード。養老孟司が解剖のための遺体を引き取りに行ったところ、そこは団地の12階で、横にしたままでは棺がエレベーターに乗らず、棺を縦にしてエレベーターに乗せて運んだというもの。養老孟司は設計者の落度と都市化の弊害を指摘していた。改めて、建築という分野の、考えなければならないことの多さが身にしみ、ため息が出た。 つづく。 #
by oh_hira
| 2004-12-29 17:59
| 批評
久しぶりに働いて、ブログへの投稿が滞りがちになって、いかに今までが暇だったかを実感。まあ、昼は仕事をして、夜は飲み歩ってたから、書く時間もないし、書こうという気も起こらなかったんだけど。書きたくなるようなエピソードも、なかなか発生しないし。それでもやっぱり何かは考えていて、こうして書いていたりなんかするわけだけど。
書くためには、それなりの1人の時間というものと、それなりのエネルギーが必要だということがわかってきた。 疲れていたり凹んでいたりすると、『書く』という作業が、つまらなく、くだらなく、どうでもいいことのように感じられたりする。実際、この数カ月の間、書きまくってきたこれらの文章が、いったいどれほどの意味を持つのか、わからない。ある側面から見れば意味があるし、ある側面から見れば意味がない。暇だったから、勢いにまかせて書きまくってきた。書きまくってるだけあって、少しは文章が上手くなってきたような気もするし、早く書けるようにもなってきた。 書くことで、考えた事が整理されるし、自分の中で考えた事が客体化されるので、何かを考えるという意味では、とても役に立っている。このブログを読んでくれている人が結構たくさんいるけど、基本的には、読んでくれている人の事はあまり考えていない。読んでくれている人が増え続ける中、こんなに独りよがりの事ばかり書き続けていていいのだろうかと考えたが、やはりこのブログのテーマは『観察すること→考えること→書くこと』なんだという結論に達した。ぼくそのものなんだけど。ぼくが考えたことをぼくなりに書いて、読んでくれた人が何か感じてくれれば、それでいいんじゃないかと。つまらなかったら、見なければいいわけだからね。とはいえ、あまり閉じてるとつまらないものになってしまうし、どのくらい開くかというバランス感覚は重要かもしれない。 きっと、書き続けることが大事なんだろうと思う。1年、2年、10年、20年と続けていけば、きっと何かになりえると思う。続けられれば、の話だけど。 最近少し読書量が減りがちだけど、読むことを、書くことにフィードバックしていけるようになれば、まだまだ進化していけるような気もするし。 #
by oh_hira
| 2004-12-29 16:08
| 日記
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